「大水害の時は、」7月23日 長崎大水害の日
去年の長崎大水害の日においては、急峻な山を有する街における、洪水と土石流の豪雨災害について、記載していた。ウクライナ侵攻など、世界情勢の急激な変化があった2022年においては、原子爆弾の投下された被曝地としてのナガサキがクローズアップされるようにも感じられるが、やはり、水害の街長崎としての側面も、忘れてはならないであろう。日本各所でも洪水、大雨、土砂による災害が年に数例みられ、甚大な被害を及ぼしており、そのニュースが出てくるたびに、今の40代以上の人々からは、「大水害の時は」と遠くはない昔の身近な体験談が聞かれることがあるのである。1982年(昭和57年)7月23日、299名の命が失われた長崎大水害の復興の象徴の一つ、中島川の様子について、今回は取り上げてみたいと思う。
昨年は大水害の体験談とともに、土石流の被害について記載していた。
長崎を徒歩で観光する際にも、ぜひ、注目してほしいのが、眼鏡橋が架かる中島川における河川の大規模改修の跡である。古い中島川流域の映像については、当ブログ内でも何度も紹介している、くんち祭りでの過酷なヒエラルキー下でのNHKのドキュメンタリー新日本紀行の「傘鉾の舞」を見てほしい。東古川町は中島川の川縁の町であり、現在も古い町屋が一部で見られるエリアである。
かつての眼鏡橋周辺の中島川の淵には、川に迫り出すように家々が立ち並んでおり、川幅は狭く、生活排水は垂れ流しにされ、生活ゴミなどで溢れかえっていたという。明治期のコレラ対策で整備された各下水施設は暗渠となり、清掃は行われたという話も聞かなかったというほどだから、中島川流域のエリアでは排水が悪く、大水害の日を迎えることになった。長崎海洋気象台(南山手町)の記録によると、7月23日当日の1時間ごとの降雨量は、23日20時までに111.5 mm、21時までに102 mm、22時までに99.5 mmと、3時間雨量は313 mmに達する猛烈な雨であった。急峻な長崎の山々から溝だけではなく、道路までを通って、川に、海に向かって流れ込んできており、河川の処理容量を超えてしまい、洪水となった。
現在の中島川
上記のビデオにおいても見られるように、大水害前の中島川の様子とは、全く違った様相が今では見られる。現在では川の両端には大きな道路や緑地帯がひろがっており、市民の散歩道となり、観光客の写真撮影のスペースとなっている。このスペースの下は広大な暗渠が形成されているのである。中島川バイパスと名付けられたこの両側の暗渠は、中島川にかかり、長崎大水害で倒壊した「長崎の象徴 眼鏡橋」を保護するのも目的であったという。
中島川バイパスは平成18年に現在の姿となった。昭和63年(1988年)に右岸バイパス、平成18年(2006年)に左岸バイパスが完成した。分流させる部分には大きな窪みが設けられているのが見られ、常に両岸バイパスへの水流のゆったりしているのが見られる。右岸バイパス240m(総長320m)、左岸バイパス262mの暗渠が形成されている。
先に完成した右岸では連続地中壁工法、左岸ではオープンシールド工法が採用されており、これは完成時期の違いがある。もともと公園としての用地が確保されていた右岸では水害後すぐに工事に取り掛かっているが、家々が立ち並んでいた左岸では、その用地買収に時間を要し、両岸が完成するまでに20年もの月日を要している。
両岸バイパスの計画・工事内容については下記を参照できる。
https://k-keikaku.or.jp/中島川右岸バイパス工事の計画・施工について/
https://www.nn-techinfo.jp/NNTD/files/1034/1034_1202.pdf
おわりに
大雨洪水警報が出た中での眼鏡橋周辺での冠水の被害については、多くを聞かなくなってきており、この周囲での治水はある程度うまくいっているのが現状である。浜町周辺などとなると話がまた異なり、飲食店が浸水の被害を受けて、台下冷蔵庫の廃棄が聞かれたりとするほどである。また、長崎市内では、大雨の際に小規模であるが崖崩れが年に数件報道されている。上小島や戸町といった、もともと急峻な斜面に位置するエリアでも見られており、住宅にも被害が及んでいる。水害などという自然災害とは、その土地を立ち去るまでは、終わりなき危険との共存となる。