#dynamic_Nagasaki

長崎県をDynamic Nagasakiとして見つめ直します。現在おっさんがちゃんぽん食べ歩いています。乗り物、旅行、自転車、ジョギングも!

消えてしまった長崎の中華料理 陶々亭

to長崎の中華料理

「長崎の中華料理」というと、今では、福州由来の甘ったるい、ちゃんぽんストリート(いわゆる長崎新地中華街)の中華料理を指すのであろう。これは、華僑の人々が伝えた料理が、ちゃんぽん屋のサイドメニューとして残っているだけで、福建料理というよりは日式中華料理の様になりつつある。観光と修学旅行生にターゲットを絞ったマーケティングにより、皮肉なことに、料理屋の見てくれはよくなっているが、過去の大切な家庭のレシピの数々や福州の伝統の味は失われてきている。今の長崎には、江戸時代から脈々と続いてきた華僑の流れと、20世紀後半の日本留学生時代に来日した華僑の流れとがあり、後者の方が、大陸的な商売のセンスと味の再現性が高い。

これら、華僑の流れとは別に、日本人が習得した中華料理の料亭と言われた料理屋が長崎にはあった。これが中華料亭 陶々亭である。日本家屋と日本風の庭を有した料亭であるが、出てくるのは、中華風の日本料理の様でもあった。江戸時代、華僑が日本人相手に直接食事を出したり出来たかどうかは文献に未だ当たっておらず、不明である。出島の例を見ると、日本側から、料理人を提供し、バタビアからのジャワ人使用人やオランダ人からレシピを聞いて調理させていたことがある。清国の場合は常時2000人と人数も多かったし、男も料理をする国であるから、交流の中で、中華料理の味を知っていったのだろう。清国と一口に言っても、現代の中華人民共和国同様(普通語の流通により、大分減りつつあるが)、各地方の方言が相当あり、南京口・福州口・漳州口と方言によっての通事(長崎奉行の通訳兼世話係)も設けられていたほどであった。このため、それぞれの地方の料理に触れることも多かった事だろう。日本人の舌や技術を通して解釈された中華風料理が長崎では供されていた時代があった。2020年の5月をもって閉店となってしまったのである。

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十人町の坂をとぼとぼ歩いて上がると緑に包まれた陶々亭が見える

四海楼というちゃんぽん屋の4代目が書いた本では、支那料理を初めて作った日本人として、佐世保四海楼の大浦氏のことがあがっている。長崎華僑からすれば、自分のところの弟子であるし、陶々亭の料理なぞ、中華料理ではないとするだろう。当時の日本人からすれば、陶々亭で供される料理は、れっきとした中華料理であっただろう。そうこう言っているから、ただのちゃんぽん屋に成り下がって行ったのが長崎華僑なのである。

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陶々亭のエントランス

 

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