長崎の出島はバタビアの郊外都市である
当時の出島はオランダ人の商館が置かれており、オランダ船は現インドネシアのジャカルタ、オランダ植民地のバタビアを基地とし、そこから日本へと出帆していました。当時のバタビアはオランダの東洋航路の基地であり、オランダの植民地の大部分を占めていました。イギリスの代頭と共に、北米やアフリカに有していた植民地を17世期後半から失い始め、20世紀に入ると南米のスリナム、カリブ海、東インド植民地となり、東インド植民地、現インドネシアが最大となりました。世界での植民地の最大版図の頃に設立されたのが、出島であり、極東航路でした。
オランダやバタビアから見ると、出島のある長崎は、バタビアの北にある、小さな村落であり、蘭日貿易の重要な拠点でありました。バタビアよりも気候が良いものの、湿度が高く、オランダよりも住み心地が良くない、自由に街も出歩けないようなところでした。
出島におけるバタビアの介在
当時のオランダ船の運行は、Koninklijke Nederlandsch-Indische Luchtvaart Maatschappij(KNILM)、オランダ王国インド航空の運航のようなものであったのでしょう。あくまで当時のジャワ人は召使いで、船での煮炊きや洗濯、荷役などを担当していました。貿易の主たる部分や航海に関する重要なポストに就くことはなかったでしょうし、それは1945年のインドネシア独立までなかったことでしょう。
出島でオランダ人の料理として展示されているものは、日本人が調理したとされており、オランダ風の日本スタイルの料理であったとも考えられます。当時の献立などを見ていると、インドネシア料理風の一部も見ることがあり、インドネシアの人々が伝えたものもあったでしょう。香辛料をつぶす係になったインドネシア人などが描かれた絵巻もあり、台所でもちょこちょこと動き回っていたようです。
そもそも、オランダ人の食事は大して美味でもなく、肉料理が珍しい程度であったはず。。直にどんな味であったのかは、もう誰も知るよしもありません。。。
当時の日本人が残した絵巻や挿絵などから、インドネシアから遥々連れてこられたジャワ人の姿を見ることができます。