#dynamic_Nagasaki

Dynamic Nagasakiを見つめ直します。現在おっさんがちゃんぽん食べ歩いています。

佐世保大空襲 1945年6月28日

軍港都市 佐世保

佐世保で雨が降り続けると長崎市ともまた違った情緒が出てくる。しっとりとした空気となり、山山の樹樹が緑の色を濃くし、5月以降にもなると萌える若葉は4月の話となり、深い緑が街の各所でみられる。6月ともなると大抵は梅雨に入っており、灰色の濃い雲に音を立てて降る雨がトタン板や木木の葉にあたる様を聞くものである。西の果てでも、長崎市は山の上まで家々が並んでいるのだが、佐世保ではそこまでの執念はなく、中央の平坦な部分には広く緑地が確保されており、夏の緑は6月にはみられるものである。

佐世保というのは戦略・地政学の要件ともにあった街である。近代化を日本が進めていく中で、極東におけるロシア、朝鮮半島、中国大陸と日本の交わる交差点からほど近い要衝としての街となった。もともと4000人ほどの寒村で、半農半漁で生計をたてていたエリアである。明治16年(1883年)に調査が開始され、明治19年(1886年)に西海鎮守府の設置が勅令で発布されてできた、新しい西海鎮守の町であった。現在のSSK(佐世保重工)や米軍の使用しているドックエリアは佐世保海軍工廠として開発され、各種埠頭や倉庫設備などの整備が進められ、現在の佐世保市の中心部はこれらの施設に加えた民間施設からなる、150年も経たない街である。日露戦争の頃には連合艦隊の出撃基地となり、旅順港、黄海、日本海海戦とそれぞれの戦闘での補給基地であり、修繕基地でもあった。連合艦隊の出港時の黒煙の様などは、今でも写真として、市内のどこかで見ることができる。

第二次世界大戦中の太平洋戦争の開戦時には、12月8日の針尾無線塔(佐世保無線電信所)を経由して、連合艦隊の出撃命令が出された。戦時中には1945年6月28日に佐世保大空襲を受け、街は灰塵となり多くの命が失われた。そして、太平洋戦争の敗戦後も、針尾には大陸からの引揚者が続々と上陸して、そこから全国へ散っていった。長崎市への原爆投下とも異なる、東京大空襲などの大都市への空襲と同様の惨劇が市内各所でも記録されており、長崎県民ながら、他所との空襲の記憶の共有があるのが、佐世保市民のまた長崎らしくない一面でもあるのかもしれない。

1945年6月28日

終戦も間近の6月28日深夜、佐世保市を米軍のB29 による空襲が受けた。梅雨時で、「今夜は空襲もないだろう」と思い、市民の大部分が床に着いたころ、午後11時58分、空襲警報が鳴り響いた。警戒警報を飛び越えての事態であり、大雨の中、市民は家を飛び出し避難を開始したという。

141機のB-29が佐世保上空に侵入し、推定1200トンもの焼夷弾を投下した。佐世保鎮守府の置かれていた佐世保基地には被害はほとんどなく、民間人の居住する市街地が焼け野原となった。現在の佐世保市中央の市役所から三ヶ町、四ヶ町のアーケード、名切から花園町、小佐世保町までと広範に約1,782,000平方kmが焼き尽くされた。死者 1242名、被災家屋12,037戸とされる。焼夷弾により各所で発生した火炎により、人々は追われ、煙に巻き込まれ、鎮火するまでの間を逃げ惑っていた。ほとんどが民間人であったとされ、日本各地で行われた米軍の無差別爆撃の様相である。

鎮魂慰霊平和祈願の塔 ステンレスが光を反射する

鎮魂慰霊平和祈願の塔 台座に刻まれた空襲時の様子

鎮魂慰霊平和祈願の塔 脇に刻まれた空襲犠牲者の名

佐世保大空襲の説明文の碑

1945年6月28日の佐世保大空襲の記録は「火の雨」として当時の証言をまとめた記録がのこされている。民間施設・民間の住宅を平然と攻撃していた当時の米軍は、ウクライナを侵略し民間人に対する拉致・強制連行・処刑・強姦・強奪などの蛮行を繰り返すロシア連邦軍と倫理的になんら変わりない。政府には、これらの民間人に対する攻撃や蛮行から身体や財産を守る義務がある。「平和を考える」「平和を望む」と、口に出すのは容易いが、各人の弛まぬ努力の結晶としての平和が実現するのである。先の大戦の数々の悲劇は確かに繰り返してはならず、ロシアによるウクライナ侵略を目の当たりにした今、「平和憲法」と呼ばれている枠組みの中で思考停止に陥りがちが現状において、現状維持を望んでいるだけで良いのか、また、守りたいものが自らにあるのかを、先の大戦の政治・経済・軍備・軍事・世界情勢・諜報などあらゆる角度から再度検証するのがその一歩となるであろう。

プライバシーポリシー