閉店するちゃんぽん屋
少子高齢化社会を迎えている日本社会の構図は、西の果てでも当てはまるようになっている。代替わり、高齢化などで、事業継承がうまくいかなかったりということがあるようで、次々にちゃんぽん屋は閉店しているのである。このうちのいくつかを以下に紹介する。あえて、以前の店の状況の写真は載せずに、「その後」を記載しておこう。
かたおか
いつの頃からだったろうか、長崎駅前の町中華で、外国人の姿が増え出したのは。。。おそらく、インバウンドと騒がれる以前、アイーダ社の客船の建造中のことだろう。英語も喋れない、英語のメニューもないからホトホト困り果てて、茫然とする店のおばちゃんたちを余所目に、英語話者のお客たちはどこか楽しそうであった。中華料理店であるが、本当の言葉の通じないアジアンな体験をできたからだろうか。代わりにメニューの解説をし、注文を取ってあげたのであった。
新聞読みながら、客待ちしてるJJIが振る鍋から皿うどん。スープを入れて、煮て炒めて麺と和える。チョーコーの金蝶ソースでアクセントをつけて。駅前の普通の食堂。こないだはアメリカ人の通訳させられたな。#Dynamic_Nagasaki pic.twitter.com/DZeJzUHDzl
— DRK (@limken21) October 2, 2017
駅前であり、列車やバスが着くたびにそろそろと客が入り、昼時は忙しそうであった印象がある。奥の厨房までが見通せる店内であり、鍋を振り、注文を捌き切ると、白衣姿のおじさんが、厨房ではのんびり丸椅子に腰掛けて、長崎新聞を読む姿が印象的であった。ここ、かたおかのちゃんぽんは私の中である意味原風景である。
最終所在地:
美有天
ちゃんぽん御殿でも閉店する。ちゃんぽんストリートのはずれ、元唐人屋敷(清国人隔離区域)からすぐに建てられていたちゃんぽん御殿であった。大きな料理の写真が掲げられ、赤の色も煤けていた。この手のちゃんぽん御殿のゴテゴテした雰囲気が苦手で、私は近づいたことはなかったが、2019年8月15日、閉店している。元祖 長崎ちゃんぽんを掲げ、初代林依妹の店として、大書されていた。おそらく、長崎ちゃんぽんも長崎皿うどんも、華僑の間での情報共有の中で生まれて行ったのだろうと考えているから、四海樓のことを開祖(宗教みたいなものである)と呼んでいる。
最終所在地:
喜楽園
ある意味、ここは長崎でも名物であったらしい。らしいというのは、そこに残る逸話がこの業態において大変興味深く、多くの友人たちが思い出のように語り、私が一度も訪れることなく、閉店したからである。おかみさんが亡くなって、次の世代が店を続けられなくなったと記載しておく。
4人のちゃんぽんの注文が入るまで、調理は開始されなかったという。店のおとうさんではなく、おかみさんが作っていたという話も有名である。お水を給仕して、注文も「ちゃんぽんね?」と聞いて回り、「よかとさー」と常連や友人とのんびり会話していたというスタッフたちは、この街の昭和のおおらかな時代を体現していた。漫画本やテレビを完備し、長い待ち時間を待てるお客だけが楽しめたちゃんぽんだったとも言える。今、平成・令和となって、このおおらかさを持ち合わせる客がどれだけいるのだろうかと思うことがある。また、ちゃんぽんストリートの料理人たちも、「ちゃんぽん食べよー」と向かったという伝説の店でもある。
最終所在地: