そもそもトルコライスとは?
炭水化物に揚げ物をのせた料理である。トルコには縁も所縁もないことだけは確からしい。そして、長崎での名物かといえば、大してそういうものではない。長崎の洋食文化などは、このトルコライスを見れば推して知るべし、トルコライスを引き合いに、「そんなにレベルが高いものがあるのか」と長崎のまちっこに訊いてみれば大抵答えに窮する。この見てくれからして、戦後間もなくの混乱期からのハイカラとも言えない西洋風料理をカロリー面の欲求を満たすために、ただ詰め合わせただけのプレートメニューであり、日本各地でも同じ様なものが残っている。
そこまで、食べたいと思う物でもなく、まだいくつかしか食べていないため、わからない点が多いのであるが、以下の様な物である。
- いわゆる「かやくごはん」の類、炒飯、ピラフ、ドライカレー
- カツ、ハンバーグなどが載り、値段が上がると、エビフライなどが追加される
- スパゲティナポリタン、トマトケチャップで絡めた茹で過ぎパスタ
- 甘い、デミグラスソースかカレーソースか、ケチャップかその類のソース
- サラダは別添えかプレートに載る
「オトナのお子様定食」と言った類のものがこれでもかと積まれてやってくるのであるが、これを食べに出てくるのは、御婦人連中も居たりと、西の果て長崎はよくわからない街である。
トルコライスの発祥は不明
ちゃんぽんの発祥も不明であるが、トルコライスの起こりもどうも諸説あって、ジャカルタ郊外都市長崎(Dynamic suburb of Jakarta, Nagasaki, 通称DJN)らしい展開を見せている。できて高々70年たっていない、盛り合わせただけのシンプルな料理であるにもかかわらず、その発祥は闇の中になっている。基本的な出自は、洋食屋のまかない飯だったのではないだろう。ピラフやナポリタンなどというのは案外手間がかかり、それを一々注文が入るたびに作っていたのでは、時間もかかる。そもそもの組み合わせが、ホテルの前日のバッフェの残り物を取り合わせたような風態である。ある時、ホテルかどこかのバッフェで、手前から料理を取っていくと、見事にトルコライスが完成するという場面に出くわし、それ以来、この残り物盛り合わせ飯か賄い飯とした仮説に至っている。起源なんという論争も奇しく、答えは、ただのまかない飯だったのではなかろうか。
おそらく、トルコの名前は、トルコ風呂程度のものであろうし、どこそこのカフェやレストランが始めて、そのボリューム感が、長引いていた戦後の混乱期の長崎でブームとなり、爆発的にメニューとして広がった程度のことだろう。この点は今後、さらなる調査が必要であるが、一応、諸説を併記して、優劣は付けない。
- ボルドーの店主の父が開発説
- レストラントルコ説
- レストラン丸善発祥説
- 地理的命名説
- トリコロール説
どれも、大して説得力はなく、店を起源とする名称程度の範囲を超える物ではない。これも「オトナのお子様ランチ」の範囲の類の盛り合わせプレードメニューだからであろう。
にしても、メニューとして完成して40年ほどでその発祥も分からなくなるとは、何が起こっているのか理解に苦しむ町であり、他の長く続いている事柄でも、年月は経ているが、事実は全く違うところにありそうな点が恐ろしい。
「トルコライスの日」は外交問題一歩手前まで行くDJNらしい展開
毎日いろいろなドンドコなことが起こる西の果ての町長崎市である。トルコライスの日を巡っても、怪しい展開を見せていたのは大変な驚きである。事故の起こった日をトルコライスの日としてしまうあたり、原爆投下が起こったり、数々の悲劇があった街として、良識や常識が疑われることが普段から見られるDJN(長崎市の当ブログでの愛称)ではごく当たり前の帰結かもしれない。
トルコライスの特集をはじめてゆくにあたって
トルコライスを紹介するには体力も必要で、たまに押し寄せてくる、デブの波、炭水化物の山、多量の脂質と高濃度の糖質を欲する様な時と場面でのみ試してみる様にしている。長崎の名物と呼ぶには、あまりに稚拙な組み合わせとBからC級の食事であるから、喜んでどうこういう物でもない。これがあるために、DJNの街中では、洋食文化の発展が遅れ、イタリアンもフレンチも、幾つかは確かな店があるのであるが、どこか微妙な店舗が多い。