#dynamic_Nagasaki

長崎県をDynamic Nagasakiとして見つめ直します。現在おっさんがちゃんぽん食べ歩いています。乗り物、旅行、自転車、ジョギングも!

「ながさき」というところ 8月9日に思うこと 2020年

8月が来るたびに、どこか重苦しい雰囲気に包まれる西の果ての街、長崎である。

1945年8月9日11月2分

1945年8月9日11月2分 プルトニウム型原子爆弾がアメリカ軍により投下され、浦上上空、浦上刑務所付近を爆心地とし、炸裂した。死者 73,884人、重軽傷者 74,909人、合計 148,793人を出した。原子爆弾の熱風・爆風・熱線と爆発と同時に放たれる放射線が放出される。爆心地からの半径1km内では、熱風・爆風・熱線によるだけでなく、放射線による強い障害により、6ヶ月以内に95%前後の方が死亡しているという(長崎大学原爆後障害医療研究所(長崎原爆の人体に与える影響))。

浦上地区は家屋は粉砕され、浦上天主堂・長崎医大関連施設も崩壊した。現長崎大学のキャンパスとなっている三菱兵器工場には工員として学生や生徒が動員されており、そこで被曝したものも多かった。一方、旧長崎地区(諏訪神社の周辺)では、投下直後、半壊から窓ガラスが割れるなどの被害で、その後、火災が広範に発生していた。各地区ごとに被害状況が異なることは、長崎市街地の南北に長く、山がちな、起伏に富んだ地形によるものだっただろう。

長崎大学原爆後障害医療研究所の図に詳しい。長崎で移動する際には、ぜひ片手に持ってみて欲しい。そして、案外、この日時を知らないものが多い様である。

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https://www-sdc.med.nagasaki-u.ac.jp/abomb/pdamage_j.html

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原子爆弾落下中心地碑

海外からの訪問者が居ると、仕事場に近いこともあり、原爆関連史跡を回ることが多い。国籍や出身国によって反応は様々である。ただ、「戦争によるから仕方ない」というものや、「2度とあってはならない」というものなど、あまり戦史を知らないものも居て、興味深い反応である。特に専門職の移民で他国で暮らすものは、案外世界史の知識に乏しく、そのアイデンティティも不確かなものが多いためだろうか。

長崎県では戦後、平和教育の名の下、8月9日を登校日とし、灼熱の講堂に児童を集め、セミの鳴く音と原爆投下の出来事のみを聞かせ、「平和の尊さ」を説くという形で教育され、「戦争は悪」という一言で片付ける傾向にある。過去を生きる街、長崎では、学校教育においても、第二次大戦に至る歴史の転換点やそれぞれの戦史の講義は乏しく、突然、(戦況が悪くなって、ならない学校もあるという)原爆投下が起こる。これは高校生まで成長する過程でも同様で、世界史の学習でもカリキュラムの都合からか、流れとしての戦史・多国間関係史を学ぶことはない(大抵3月末のドサクサで抹消させている)。小学校では、アメリカ憎しの恨み辛みを持つ様に誘導する教師も居たし、歴史に「もしも」はないが、戦争に至る経緯や戦史から学び省みるべきことに、「戦争は悪」の一言で、目を背けて良いのであろうか。ただ、8月9日一点を見つめるのではなく、ウエストファリア条約・明治維新以降の歴史を一国と多国間を行き来しながら眺め、長崎の原爆投下とも全体と局所を焦点を変えながら、国際社会における日本や世界史における第二次大戦の位置づけから、日本の官僚主義的なお役所仕事の顛末や国民の熱狂、メディアの偏向など、数々の要素が最終到達点としての敗戦に繋がったことを学ぶことが平和教育の一つの形ではないかとこの10年くらい考えている。

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爆心地公園

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長崎原爆資料館

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平和の母子像

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浦上周辺の地図 爆心地からの距離感はこれを見るとわかりやすい

医学の学術的資料については、以下のサイトにまとめられている。 

www-sdc.med.nagasaki-u.ac.jp

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